精神的虐待の記憶
※幼少期の辛い思い出と愚痴です。興味のない方はスルーして下さい。
私の母は親としての資質がない。
私が親になってわかった。
昔から母の口癖
「あんたも親になったらわかる」
親になってわかったのは、実母のいい加減さと私に精神的な虐待をしていたこと。
母は、結婚して7年の時、父に好きな人ができ、その人と結婚するから、と離婚をした。
離婚後、私と兄は父に引き取られた。新しい継母と少し暮らしていたようだが、兄が私を連れて家出した。
5歳と2歳の幼児の逃亡はすぐに大人に保護され警察経由で実母のもとに帰された。
それから家庭裁判所で親権の変更などをし、私たちきょうだいは母に育てられることになった。
母は、私たちを育てたくて育てたのではなかったのだと思う。それならすごく腑に落ちる。
母のいうことを聞かないと、すぐ「施設に入れるよ!」と脅された。
5、6才の頃養女に出されそうになったことも思いだした。
10才位のころ、伯母家族と一緒に食事に行って、義伯父に無理やり生ビールをジョッキで飲まされたこともあった。
顔が真っ赤になりろれつが回らなくなり、千鳥足になったのを見て母は大笑いしていた。
母は、最初の子を死産しているので、それを乗り越えてから出産した兄は本当にかわいかったにちがいない。
その三年後、父とすきま風が吹いていた頃に生まれた私は「なんでこんな時に…」という思いだったと思う。
もう少し早くに父との離婚が決まっていたら私は生まれていない。
だから我が子なのに、あれほどまでにひどい事ができたのだと思う。
母には資格も技術も何もかなったので、離婚後子供を引き取ってから私が就学するまでの数年間、生活保護を受けていた。
そのことはずっと秘密にしていて「女でひとつで苦労して子供二人育てた」と恩着せがましいことばかりいっていた。
幼い私と兄がいたから、働かずして人様の税金で生活できていたのに。
働き始めると、自分の老後の心配ばかりして、私には、ほとんどお金をかけなかった。
子供にかけるお金があれば、それはすべて個人年金に回していたのだ。
衣類は、近所の人のおさがりばかり。新しい服は母の弟が買ってくれたり、職場の人の手作りのお恵みの品だった。
習い事は習字のみ。
近所だったのと、月謝が安い(300
~500円、40年前)ので唯一許したのだと思う。
その後、ピアノ、エレクトーン、バレエ、そろばん、英語など、回りの友達が通っているので、習いたいと言っても、けんもほろろに却下された。
それを今蒸し返すと「お母さん一人で働いてそんな余裕なかった」と激高する。
でも、その言葉とは裏腹に、兄の方は結構習い事をしていた。
小学生になったと同時に剣道と水泳。小学校中学年で家庭教師。
中学に入ったらテニス部、その後テニスをやめて卓球部。
テニスラケットをよく壊していたので、しょっちゅう買い換えていた。ガットもよく張り替えていた。
衣類や持ち物はいつも新品だった。
兄にはお金をかけていたと思う。
兄は、結局何一つものにならなかった。
むしろ、中3で不登校になり、家庭内暴力、児童相談所→青少年育成施設入所。
要は兄にだけ過干渉だったのだ。
私は、小学生の時 何度も自殺をしようと思った。生きているのがつらくて。
遺書を書いたこともある。
そんな時、よく妄想をした。
ある日突然きちんとした大人がやってきて
「あなたは本当は○○家のお嬢様で、手違いでとり違えられていました」
と。
きっと誰かが助けに来てくれる、と。
それから、母のことは他人のおばさんにしか思えず、赤の他人がご飯を食べさせてくれるのだから、それだけでありがたい、と思う事にした。
中学生になった私は、高校を卒業したら家を出ることばかり考えていた。
高校時代と卒業後一年間はアルバイトでお金を貯め、高校卒業一年後上京した。
一年間専門学校に通い、卒業後は出版関係に就職。出版社や広告代理店を転々とした。
楽しい独身時代だった。
生きている価値などないと思っていたけれど、なんとかまだしぶとく生きている。
子どもの頃の記憶が時折甦り、枕を濡らすことがある。こればかりは記憶がなくならない限りどうしょうもない。
子どもの教育費をケチって個人年金ばかりしていたから、現在の母は小銭を持っている。
いくつになったら年金がいくら入る、とか、毎年のように入金されるまとまったお金の勘定に余念がない。
40年前、個人年金に回すお金の一部を私のために使ってほしかった。
そのことを訴えても、絶対に母はみとめない。
離婚のせいにする。
母が生きているうちに、心からわびてくれたらどんなに気が晴れるだろうか、と思う。
きっと無理だろうけど…。
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